「世の中に不満があるなら自分を変えろ」を実践していたら何も出来なくなった

 アニメの台詞の中でも最高峰に有名な『攻殻機動隊草薙素子の台詞、「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」。

 

 どっかでは社畜洗脳ワードだなんて言われていたけど、とても良い言葉だと思う。問題があるときは必ず自分かそれ以外に問題がある。どちらが悪いかは様々だが(大抵は両方)、自分の手で変えられるのは、基本的に自分だけだからだ。

 というか、外部を変えるためにもまずは自分に何らかの働きかけをしなければならない。究極的には、自分を変えること意外に何かを能動的に動かすことは出来ないのだ。

 だから、この言葉はある種自分のポリシーでもあった。ところが、最近はこの言葉を盲信しすぎるのは危ないと思っている。

 

 

 というのも、「自分を変える」には大きく分けて二つのパターンがあるからだ。一つは、襲い来る不満と自分とのギャップを明らかにしてそれをなくす、もしくは改善するために行動すること。恐らくこちらが正しい意味。

 そしてもう一つが、襲いかかってきた理不尽を「大したことじゃない」と自分に納得させることで耐え抜く考え方。こちらも語義通りに自分を変えているのだが、導かれる結果が前者とは大きく違う。

 

 端的に言うと、何も出来なくなってしまうのだ。子どもの躾ではよく、「こんなの他の家では当たり前なんだから我慢しなさい」という言葉が使われるが、それを自分に納得させるようなものだ。

 理不尽な目にあっても、「これはみんなが抱えているつらさだ」と思うことで傷を軽減する。というより、「この程度のダメージに耐えられないはずがない」と思い込むことで傷をそのままの状態にしてしまう。

 

 もちろんこれは大切な技術でもあるんだけど、それだけでは自身が向上することはない。僕は後者の考え方ばかりして、気づいたらいつまでも同じところにとどまっているのかもしれない。自分以外のものまで変えようとした人は、いつの間にかもっと先まで進んでいってしまった。

 

 

 自分の考え方を変えるだけで、周辺までも変えるよう努力をしなければ、結局葉世界も個人も何も変わらないし、抱え込んだストレスでやがては摩耗しパンクしてしまう。

 

 「自分を変えろ」という言葉は口当たりは良いが、それなら自分を変えることがどんなことなのかまで考えないといけない。

 

 

 

 

求める事の過程と到達点についてのメモ

 
 求めずにはいられないから傷つくが、それでも求めずにはいられない。だから他人について知りたければ、その人が求めるものが何かを知ればいい。ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』には欲動についてこう書いてある。
欲動の2つの目標について検討しましょう。2つを区別するために、私はそれらを英語で書きつけます。
 
1つは「aim 狙い」、これはその人が何をもたらすかではなくて、どんな道を通過しなければいけないか、ということです。
 
もう1つの「goal 到達点」もまた、弓術における的ではありません。それは射程とした鳥そのものではなくて、矢を放ち的を射るということです。(一部改編)
 
 欲動とは、欲望よりさらに根源的な欲望のことだ。求める対象ではなく、求める行為自体に意味がある。この言葉はある意味で僕を救ってくれる。求めたものが手に入らなくても失望しなくてもいい。そもそもラカンは、求める対象は必ず手に入らないと言う。そのことに気づいたとき、視点は一段階メタ的になる。
 
 求める行為に価値があると分かった上で、改めて何を求めるのか。結果より過程だと分かったところで、過程を生み出すための目標がいる。的はいらないと分かっても、やはり矢を放つためには到達点を仮想しなければいけないのではないか。そう考えたとき、僕は再び立ちすくんでしまうのだ。
 
 もちろんラカンは、ここにも答えを用意している。欲動の対象ではなく、原因となるもの。しかしこれはあまりに不確かでイメージに堪えないものなので、ここではそれには触れないことにする。
 
 

 

一つの生き方として 村上春樹『風の歌を聴け』

 生き方の一つのモデルについて雑記。僕にはこれが一つの理想に思える。

 

 村上春樹の処女作『風の歌を聴け』は十二月の湖畔を吹く風のようにドライで、束の間であるのに永遠のような停滞を感じさせる小説だ。この小説で村上は、良い文章についてデレク・ハートフィールドの言葉を引いている。

文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

 おそらくハートフィールドは、純粋に文章の書き方を述べるために上の文を残したのだろう。しかしこのころの村上は、この理念を人間の生きざまにまで適用させているように見える。それは人間の生き様となった途端に、ある種の切なさを帯びる。そしてこの「感性ではなくものさし」こそが、初期村上作品の主人公の核なのではないか。

 

 感性とは主観であり、それに対してものさしとは客観だ。「感性ではなくものさし」とは、自分のちょっとした思いや感情ではなく、あくまで周囲との距離感や関係を第一に生きていくということだ。

 こう書くと俗にいうキョロ充のようだが、彼の作品の登場人物からは、それとはまったく異なるイメージを受ける(本当に異なるのだろうか?)。ものさしをあてがうためには、常に一定の距離が必要だ。どんなときにも相手との間隔を一定以上空け、しかもそのことを自他ともに認識しているという点で、ものさしの生き方は賢くそして切ない。

 

 例えば彼らは、頻繁に有名な言葉を引用する。どちらともいえるぼかした表現を、それとわかるように話す。本当の気持ちどころか、周りに同調するための感情表現もほとんどしない。あるいは自分の本当の気持ちすら、もう分からないのかもしれない。

 だから彼らは「バカにしてるの?」と怒られ、「悟りきっている」と感心される。心情を吐露しないのだから誰にも好かれないということはなく、むしろある程度の人(多いのか少ないのかは分からない)が、自然と彼のもとに集まってくる。真のコミュニケーションには本音が欠かせないというが、もちろんそんなことはない。表層的な言葉にこそ、人は奥底に魅力を見つけ寄ってくるのかもしれない。

 

 冒頭の言葉を引いた後、彼はその生きざまについての感想を漏らす。

それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信が持てない。楽になったことは確かだとしても、年老いて死を迎えようとした時にいったい僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨一つ残りはすまい。 

  

映画って結構「弱いつながり」になり得るのかもしれない

 急遽渋谷で6時間の暇ができてしまったので映画でも見ようと思った。以前から興味があった『思い出のマーニー』(ジブリが百合!?素晴らしい!)ならいつでも見れるだろうとタカを括ってたんだけど、なんと昼の時間でもほぼ満席。そこで突発的に選んだのが、何の前情報も持ってない『マレフィセント』だ。

 
 
 『マーニー』も見ようと思えば見れたんだけど、おっさんの汗のにおいを受けながら百合百合に萌えるのもどうなのかって気がした(本当にそんな映画なのか?)。それに、直前に

東浩紀『弱いつながり』〜環境管理型権力を出し抜く「観光客」としての生き方 - 太陽がまぶしかったから

を読んだのもあって、折角だから規定路線から外れた選択をしようと思ったのだ。レコメンドに頼らない選択、キーワード探しとしての映画鑑賞。おかげで上映開始まで2時間も空いちゃって今はクリスピードーナツで暇を潰してるんだけど、まあそれも含めて悪くない。うん、悪くない。

  僕はあずまんの『弱いつながり』は読んでいないのだけれど、彼のTwitterや最近の活動からなんとなく言いたいことは分かる気がする。そして共感できる気がする。あくまで「気がする」だけだけど。
 
 ネットが普及して世界が繋がったのに、僕らの世界はむしろ狭くなったように感じる。いや、正しく言えばきれいに仕切られた、隔離されたのかもしれない。あらゆる人と繋がれるというのは、裏を返せばウマがあわない人と繋がる必要がなくなったということだ。オタ趣味を隠して同僚のリア充トークに合わせる必要もない。誰に向ければいいか分からない心の叫びを、胸の奥にしまいこむ必要もない。現代社会なら大抵の話題はそれを共有できる相手が見つかるからだ。
 
 
 もちろんこれは良いことなんだけれど、一方で個人の所有する世界が広がることはない。同好の士とのふれあいで深まりはするんだけど、広がりはしない。別ジャンルの人間と出会わないからだ。同ジャンルの人間との出会いを重ねても、ディープにはなれるけどワイドにはなれない。もちろん、出会い方関わり方にもよるけど。
 
 そこで出てくるのが弱いつながりなんだろう。「仲間」ほど強くない「観光客」としてのつながりは、共通の話題がなくても築けるし、気に入らなければ切ればいい。また会いたいと思った人とだけ交流を続けて、そうでない人からは自分にないエッセンスだけを吸収してしまう。
 
 しかしこれは「旅人」ほど弱い関わり方でもない。「また出会うかもしれない」という可能性を残すことで、それは弱いつながりとして維持できる(していると思える)のだろう。実際に、今ならFacebookのコンタクトさえあればいつでもまた会うことができる。そしてこうした弱いつながりこそが、予想もしていなかった発見やチャンスをくれるのだろう。自分と密接に関わっていない人とはつまり、自分の知らない世界を知っている人だからだ。
 
 
 この考え方は、最近読んだ『フルサトをつくる』にも共通している。永住の地(仲間)でも放浪の旅(旅人)でもない、息抜きのためのフルサト。あるいは戦場(都会)でも帰るべき場所(故郷)でもない、中間地点の切ろうと思えばいつでも切れるような薄いつながりで構成されたフルサト。これらすべてに共通するのは、ゼロでも100でもない40-50くらいのパロメータを見直そうという働きだ。他人と友人、放浪と定住、故郷と都会。どっちにも属さない二項対立の先に、知らない世界がある。

   で、僕にとっての映画って結構それに近いのかもしれない。アニメや読書、ノベルゲームが主戦場(なんの?)の僕にとって映画は誘われたら行く、好きな作品の劇場版ができたら行く程度のものだ。だから映画の流行りなんて追いかけていないし、『マレフィセント』も全然知らなかった(どうやらディズニーの話題作らしく、これを知らないのはどうかと思ったが)。
 
 二時間できちんとフィナーレを迎えて、カタルシスを得られるのも良い。一回で一通りの情報を収集できるのは旅先での名刺交換のように、相手のエッセンスを端的に受け取ることに似ている。興味が湧けばTSUTAYAで同じ監督の作品を借りればディープにもなれるしね。
 
 フィクションという好きな部類のものではあるが、小説やノベルゲームほどでない40-50%程度の興味対象。それが僕にとっての弱いつながりである映画なんだろう。まさに新しい世界に出会えるわけだし。
 
 まあそう考えることで、時間潰しのための全く知らない映画が実にワクワクしたものに思えてくる。ああ、そろそろ上映時間だ…。

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一年のうち5か月は夏バテをしている僕が考える「夏バテってなんだ?」

  今日は夏バテで一日中ぐったりしていた。暑さが辛いだけじゃなく、重力が3Gになったのか?ってくらいに体が重くなるのが僕の夏バテだ。変に生ぬるく、体に不釣り合いな重さになった自分の体は、お風呂の生ぬるいお湯をめいいっぱい吸い込んだタオルのように思える。気持ち悪い温度で、容積に不釣り合いなくらいに重いのだ。ただひたすらに暑い、ダルいだけを繰り返す暮らし。そんなわけで、一日中寝たり起きたり(割合は7:3くらい)をループしているうちに、僕にとって夏バテとはなんだ?と考えていた。 

 

   僕はとにかく夏に弱い。GWが明ける頃から夏バテになるし、そのまま10月初旬まで気怠さが残る。体質的な原因を上げるとすれば、まず熱を放出する力が弱いことだろう。それに加えて、低血圧なのがダルさを招いている。あるいは、自律神経が不安定なのも何らかの形で僕を瀕死状態に誘っているかもしれない。あとそもそもやる気がないのとか。まあよく分からないけど、あらゆる要素が僕と夏バテを切っても切れない関係にしているんだろう。

 

  そんな時に覚える感覚は、もはや体の不調とは少し違ったものだ。もちろん健康ではないんだけど、体調異常と要約するとちょっと違和感を覚える。じゃあ、なんと言えばいいのだろう。僕がしっくりくる表現は、身体が空間から拒絶されている、だ。

  夏バテになると、自分が体の内側と外側から強く挟みこまれているような気がする。アイロンのスチームのようにむわっとした外気や、ダルさや低血圧によって何倍にも感じる空気の重さが、外界を強く意識する要因だ。極端な日差しはまさに肌を射すようで、湿った生ぬるい空気は体の表面を包み込むように気持ち悪さを残す。空気が重いという感覚は分かってくれない人も多いが、低血圧の人には経験者が多い気がする。ダルさのあまり、動く気になれないのではなく、動こうとする体を空気が抑えこんでいるように感じるのだ。空気がいつもの3倍重くなって、全身にずっしり乗っかっているような感覚。これらのせいで、否が応でも外気強く意識してしまう。

 

 

  しかし、一方で体の内側にも強い違和感をもってしまう。一つは熱気が体内にこもっている感じで、もうひとつは空気が体を外に押し出そうとする感じだ。僕は肌が弱いため通気性が低いのだろう。排出されるべき暑さが体から出ていかず、いつまでも内側に滞留しているように感じる。そして、たまに感じるのが空気が内側から体を押し出そうとする感触だ。血流の真ん中から変に外側に向かう流れがあるがもちろん皮膚を突き破って外に出て行くこともできず、それがなんともソワソワさせる。逆に空気が内側に向かっている時もあって、そんなときには前述の重力とあいまって、体が小さなところに押し込まれているように感じる。

 

  と、こんなように体の内外から圧迫されているように感じる時には、意識というものがちょうど皮膚のすぐ裏の辺りにあるように感じる。それが両方向から押しつぶされるので、なんともいえずに辛いのだ。以上、夏バテについての感触を書いてみたけど、他の人の夏バテってどうなんだろ。一口に夏バテと言っても、意外と人によってイメージはちがうんじゃないだろうか。

「耳掃除をしたくなくなる」を読んでも僕の決意は揺るがなかった話

 読んだ。

これを読めば、あなたはもう耳掃除をしたいとは思わないはずだ

  一言で言っちゃえば、耳かきをする必要なんてないし、そもそも耳に異物を突っ込んでも何もいいことはないとのこと。耳垢(「じこう」と読むらしい!)には耳を保護する役割があるし、顎を動かすことで不要な耳垢は勝手に体外に排出されるらしい。はへ~、人体ってすごいですね。要はタイトル通り、耳かきには何の意味もないということだ。

 

 しかし、例えこれが正しくても耳かき過激団体(綿棒派)の僕から耳かきを取り上げることはできない!なぜなら耳かきは掃除ではなく、心の平穏のためにあるからだ。

 

 耳かきの気持ちよさは筆舌に尽くすことができない。風呂上がりの湿った耳の水分を掬ってくれる感触。トンネルの中のような音が閉じる感じと、それをコントロールする感触。そして日常的には触れないところを表面的にはソフトに、しかし芯の部分で圧迫される感触。

 ダメだ!ボキャ貧すぎてやり場のないこの感情を、言葉に表すことができない!ところが、そんな快感を件の記事は一掃する。

 

それは自分で「痒いから掻く」悪循環を作ってしまっているからにすぎない、とバッコウス博士は言う。耳の皮膚をこすればこするほどヒスタミンが放出され、それによって皮膚が刺激され、炎症を起こす。蚊に刺された所を掻けば掻くほどそこが痒くなるのと同じことだ。

  耳かきとは虫刺されのようなもので、掻いてはいけないものを掻くことで興奮作用が起こり、さらに掻かずにはいられなくなるというのだ。確かに千理くらいあるとは思うけど、ホントにこれだけだろうか?

 

 僕は、これに加えて耳かきが魅力的なのは自分の体に内側から触れられることにあると思う。自分の体に触るというのはもちろん、刺激に伴う興奮が伴う。それがデリケートな部分ほど強くなるのは、性感帯が腋や首、耳の裏などに多いことを見れば明らかだろう。

 しかし、そう考えると身体の内側である耳の中というのは、究極に気持ちがいい個所と言えるのではないだろうか?なにしろ普段触りにくいどころか、触ってはいけないから皮膚に保護されているのだ。そんなところを綿棒ひとつで刺激できるのだから、やらない手はない。

 身体の内側で触れることができるのなんて、他には性器と肛門と、口の中くらいだ。つまり耳の中というのはこれらと同等に、身体の中で最も気持ちがいい部分と言えるのではないか!(←性器はまだしも、肛門や口内がどれくらい気持ちいいかは個人の判断に任せます。)

 

 要するにただ気持ちいい!耳掃除は気持ちいい!と、そういうことです。

 詰まるところの結論は、「これを読めば耳掃除をしたくなくなる?ふざけんな、俺の耳掃除への愛はそんなもんじゃねェ!」だ。これからも僕は、耳掃除を続けると思います。

「頭の良さ」を勘違いすると結構イタいやつになるかもよ?という話

 

 僕の周り、そして僕自身がよく言ってしまう悪口に、

「あいつって、言うほど頭良くないよな」

というものがある。

 

 皆さんも使ったことはないだろうか? この言葉はたいてい自分より高い評価を得ているものに向けられるものであり、まあどう考えても嫉妬の言葉だ。僕や僕の周りが醜い嫉妬の言葉を吐いている事実はまあいい。しかしここで問題になるのは、なぜ評価されている人が「頭が悪そうに見えるか」だ。

 

 ポイントは「頭が良さそう/悪そう」という尺度だろう。義務教育時代のようなペーパーテストがない今、頭の良さの多くは会話内容で判断される。これを少し詳しく書くと、

 

① 頭の中にあるアイデア → ② 実際に発話された内容

 

 というプロセスで頭の良さは伝達される。①はこれまでの蓄積やそれをもとに瞬間的に練られたアイデア、②が発話内容だというわけだ。ちょっとした違いは気にしないとすれば、①はインプットの力、②はアウトプットの力ととらえることができる。①と②の両方が高ければ、どんな人にも頭が良いと思ってもらえるはず。

 

 

 しかし、聞き手である僕らが受け取ることができるのは、常に②のアウトプットされた発話内容だけだ。その奥で話し手がどんなアイデアを想像していたかは、絶対に知ることができない。つまり、アウトプットされた発話内容だけで僕らは相手の「頭の良さ」を計らないといけないのだ。

 

 「頭が良い」って?

 

 冒頭の悪口に戻ってみる。「あいつって、言うほど頭良くないよな」。

 ここでいう頭の良さとは、おそらく①の蓄積された情報およびそれをもとに個人で練ったアイデアのことのみを指している。インプットの力のことだ。というか、ただ漠然と「頭が良い」という時、大体の人はこちらをイメージしているのではないか。

 頭の良さはアウトプットされた情報でしか判断することはできない。なのに、上記の悪口を言う人は、絶対に可視化できないインプットの力を比べて(比べたような気になって、「あいつは本当は頭が悪い」と言っているわけだ。

 

 

 しかし、厄介なのは本当にインプットの力とアウトプットの力は限りなく独立していることだ。判断されるときはこれらの総合値しか参照できないが、頭が良いと思われたいのなら、どちらの力が足りないのかを明確にする必要がある。

 

 理想は、考えたことが過不足なく伝わることだ。この状態をインプット力:アウトプット力が1:1の状態だとしよう。ほぼすべての人はインプット力の方が強い。だから、思っていることが十分に伝えられなくて悩んでいるのだ。

 とはいってもこの割合にはかなりの差がある。1:0.8の人もいれば、1:0.05くらいの人もいるだろう。

 

 さらに厄介なのは、アウトプット力の方が強い人も想定できることだ。文字にすることでアイデアが深まったり、話しているうちによりインパクトのある伝え方を察知できる人がこれにあたる。

 そして、こちらの人こそが多くの場面で求められる人間なのだろうと思う。実際、上記の悪口を言われる=嫉妬を向けられる人は大体こういうタイプの人だ。

 

 

 何が言いたかったかというと、頭の良さというとインプット力のことを指すように思えるが、他人からの評価は常にインプット×アウトプットでなされるという非対称性を理解しないと、いつまでたっても「頭が良い」と言われる人間にはなれないということだ。

 冒頭のような悪口を言う奴は、ぐだぐだいってねーで自分のアウトプット力を磨けよ、っていう。