一つの生き方として 村上春樹『風の歌を聴け』

 生き方の一つのモデルについて雑記。僕にはこれが一つの理想に思える。

 

 村上春樹の処女作『風の歌を聴け』は十二月の湖畔を吹く風のようにドライで、束の間であるのに永遠のような停滞を感じさせる小説だ。この小説で村上は、良い文章についてデレク・ハートフィールドの言葉を引いている。

文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」

 おそらくハートフィールドは、純粋に文章の書き方を述べるために上の文を残したのだろう。しかしこのころの村上は、この理念を人間の生きざまにまで適用させているように見える。それは人間の生き様となった途端に、ある種の切なさを帯びる。そしてこの「感性ではなくものさし」こそが、初期村上作品の主人公の核なのではないか。

 

 感性とは主観であり、それに対してものさしとは客観だ。「感性ではなくものさし」とは、自分のちょっとした思いや感情ではなく、あくまで周囲との距離感や関係を第一に生きていくということだ。

 こう書くと俗にいうキョロ充のようだが、彼の作品の登場人物からは、それとはまったく異なるイメージを受ける(本当に異なるのだろうか?)。ものさしをあてがうためには、常に一定の距離が必要だ。どんなときにも相手との間隔を一定以上空け、しかもそのことを自他ともに認識しているという点で、ものさしの生き方は賢くそして切ない。

 

 例えば彼らは、頻繁に有名な言葉を引用する。どちらともいえるぼかした表現を、それとわかるように話す。本当の気持ちどころか、周りに同調するための感情表現もほとんどしない。あるいは自分の本当の気持ちすら、もう分からないのかもしれない。

 だから彼らは「バカにしてるの?」と怒られ、「悟りきっている」と感心される。心情を吐露しないのだから誰にも好かれないということはなく、むしろある程度の人(多いのか少ないのかは分からない)が、自然と彼のもとに集まってくる。真のコミュニケーションには本音が欠かせないというが、もちろんそんなことはない。表層的な言葉にこそ、人は奥底に魅力を見つけ寄ってくるのかもしれない。

 

 冒頭の言葉を引いた後、彼はその生きざまについての感想を漏らす。

それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信が持てない。楽になったことは確かだとしても、年老いて死を迎えようとした時にいったい僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨一つ残りはすまい。