映画って結構「弱いつながり」になり得るのかもしれない

 急遽渋谷で6時間の暇ができてしまったので映画でも見ようと思った。以前から興味があった『思い出のマーニー』(ジブリが百合!?素晴らしい!)ならいつでも見れるだろうとタカを括ってたんだけど、なんと昼の時間でもほぼ満席。そこで突発的に選んだのが、何の前情報も持ってない『マレフィセント』だ。

 
 
 『マーニー』も見ようと思えば見れたんだけど、おっさんの汗のにおいを受けながら百合百合に萌えるのもどうなのかって気がした(本当にそんな映画なのか?)。それに、直前に

東浩紀『弱いつながり』〜環境管理型権力を出し抜く「観光客」としての生き方 - 太陽がまぶしかったから

を読んだのもあって、折角だから規定路線から外れた選択をしようと思ったのだ。レコメンドに頼らない選択、キーワード探しとしての映画鑑賞。おかげで上映開始まで2時間も空いちゃって今はクリスピードーナツで暇を潰してるんだけど、まあそれも含めて悪くない。うん、悪くない。

  僕はあずまんの『弱いつながり』は読んでいないのだけれど、彼のTwitterや最近の活動からなんとなく言いたいことは分かる気がする。そして共感できる気がする。あくまで「気がする」だけだけど。
 
 ネットが普及して世界が繋がったのに、僕らの世界はむしろ狭くなったように感じる。いや、正しく言えばきれいに仕切られた、隔離されたのかもしれない。あらゆる人と繋がれるというのは、裏を返せばウマがあわない人と繋がる必要がなくなったということだ。オタ趣味を隠して同僚のリア充トークに合わせる必要もない。誰に向ければいいか分からない心の叫びを、胸の奥にしまいこむ必要もない。現代社会なら大抵の話題はそれを共有できる相手が見つかるからだ。
 
 
 もちろんこれは良いことなんだけれど、一方で個人の所有する世界が広がることはない。同好の士とのふれあいで深まりはするんだけど、広がりはしない。別ジャンルの人間と出会わないからだ。同ジャンルの人間との出会いを重ねても、ディープにはなれるけどワイドにはなれない。もちろん、出会い方関わり方にもよるけど。
 
 そこで出てくるのが弱いつながりなんだろう。「仲間」ほど強くない「観光客」としてのつながりは、共通の話題がなくても築けるし、気に入らなければ切ればいい。また会いたいと思った人とだけ交流を続けて、そうでない人からは自分にないエッセンスだけを吸収してしまう。
 
 しかしこれは「旅人」ほど弱い関わり方でもない。「また出会うかもしれない」という可能性を残すことで、それは弱いつながりとして維持できる(していると思える)のだろう。実際に、今ならFacebookのコンタクトさえあればいつでもまた会うことができる。そしてこうした弱いつながりこそが、予想もしていなかった発見やチャンスをくれるのだろう。自分と密接に関わっていない人とはつまり、自分の知らない世界を知っている人だからだ。
 
 
 この考え方は、最近読んだ『フルサトをつくる』にも共通している。永住の地(仲間)でも放浪の旅(旅人)でもない、息抜きのためのフルサト。あるいは戦場(都会)でも帰るべき場所(故郷)でもない、中間地点の切ろうと思えばいつでも切れるような薄いつながりで構成されたフルサト。これらすべてに共通するのは、ゼロでも100でもない40-50くらいのパロメータを見直そうという働きだ。他人と友人、放浪と定住、故郷と都会。どっちにも属さない二項対立の先に、知らない世界がある。

   で、僕にとっての映画って結構それに近いのかもしれない。アニメや読書、ノベルゲームが主戦場(なんの?)の僕にとって映画は誘われたら行く、好きな作品の劇場版ができたら行く程度のものだ。だから映画の流行りなんて追いかけていないし、『マレフィセント』も全然知らなかった(どうやらディズニーの話題作らしく、これを知らないのはどうかと思ったが)。
 
 二時間できちんとフィナーレを迎えて、カタルシスを得られるのも良い。一回で一通りの情報を収集できるのは旅先での名刺交換のように、相手のエッセンスを端的に受け取ることに似ている。興味が湧けばTSUTAYAで同じ監督の作品を借りればディープにもなれるしね。
 
 フィクションという好きな部類のものではあるが、小説やノベルゲームほどでない40-50%程度の興味対象。それが僕にとっての弱いつながりである映画なんだろう。まさに新しい世界に出会えるわけだし。
 
 まあそう考えることで、時間潰しのための全く知らない映画が実にワクワクしたものに思えてくる。ああ、そろそろ上映時間だ…。

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