「普通」に埋没することの不可能性
普通の中に埋没したかった。どこにでもいるような、何の変哲もない人間として生きたかった。そしてそのまま誰にも気づかれないで消え去りたかった。「世界ににいくらでもある花」願望だ。
特別な人、代替不可能な人になりたいという希望はそこらで語られる。他の人とは違う自分、世界で一つだけの花になれないことに絶望し、なるべきだと叱咤される。しかしその逆、普通になりたいという希望はあまりおおっぴらにされない。集団に溶け込むことだけを渇望する若者はそれに近いが、少しずれがある。彼らはキャラ化してグループの中で固有性を持つことで承認を得ようとするのだから。
完全な没個性。さしたる欠点もなくしかし長所もない、そんな平均的な人間。それが一番心地よい。誰にでもできることができるから欠陥をなじられることはないが、他の人にできないことはできないから特別に必要とされることもない。集団から隔絶されるわけではないが、特別に必要ともされない。そんな「普通」の存在。
「普通」のパラドクス
そこには「普通」のパラドクスが立ちふさがる。全てにおいて「普通」の人間は全くの特殊だ。現に上記のような人間がいたらその人が平均的だと思われることはないだろう。普通の人は適度に固有性があり、替えのきかないつながりも持っている。それが普通に想定される普通の存在だ。
いつでも消え去れるような人間は普通じゃない。埋没した先にあるのは普通じゃない。普通に生まれて普通に学生をやって普通に働いて普通に結婚して普通に結婚して普通に死ぬ。そのルートをたどるためには個別的な選択肢を何度も経なければならない。固有の考えを持ってその人にしか現れない分かれ道を適度に選択するのが普通だ。しかしそれはまさに特殊そのものだ。それなら普通はどこに存在するのか?
モテる男に共通するたった一つの条件 - 飲み会はなぜ存在するのか
「成長」というチャネルが無くなったときのバランスの保ち方。
読んだ。
働くことは、どういうことか。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
この記事で言われていることは人生全体についてもあてはまるのではと思った。「成長」をよりどころにできなくなった後にどう生きればいいのか?という問題だ。
働くといってもまだアルバイトやインターンしか経験のない僕には、ここで引用されているような「企業から選別される(=弾かれる)」経験をしたことはない。けれど皆がいつまでも出世コースに入れるはずがないことは分かるし、どこかの時点で自分の落ち着きどころがはっきりするというのも容易に想像できる。
社会に出るまでの人生には必ず節目ごとのステップアップがあった。小学校に6年通ったら中学へ、中学に3年通ったら高校へ……というようにだ。それぞれの段階では学校の偏差値によって明確なランク付けをされ、とりあえずは高いランクに行くことが目標とされる。偏差値の高い高校に合格することが中学生活全体でのなんとなくの目標だし、それがあるからとりあえずテストでいい点を取った方がいいと思える。将来の自分のランクを少しでも上げたいという意思が、あらゆる努力の根底にあるわけだ。
節目ごとのステップアップは社会に出ることでとりあえず終わる。しかしもちろんそれでゴールではない。努力することはその後も求められる。そして、入社後しばらくはそのモチベーションの根底はやはり昇進というステップアップのはずだ。
しかしいつまでも昇進し続けるわけではない。上司の反応から分かるのか、能力値の天井が見えるのかは不明だが、どこかで限界が来る。それが分かった時、僕はまだ努力することができるのだろうか。いや、そもそも行動すること自体が可能なのだろうか。
別に僕は成長ばかりを考えるガツガツ人間じゃないし、努力だってほとんどしてこなかった。けれど(というかだからこそ)、努力するときにはそれが成長のためだと言い聞かせることで動くことができた。将来の自分が損をするのならとりあえず今受験勉強しないとなーと思える。未来のもうけを増やすためというのが、あらゆるモチベーションの根底にあったわけだ。
しかしそれがなくなったらどうなるのか。努力することで成長できないのなら、未来をより良くできないのなら、僕は何もしなくなるのではないか。
解決策は2つある。一つは仕事以外での成長を目指すこと。出世だけが成長することではない。ここまで書いていた成長を「社会的成長」とでも呼ぶのなら、こちらは「趣味的成長」と呼べるだろう。ゲームでもスポーツでも、仕事以外のスキルを向上させればいい。仕事はそのための資金調達だと考えるのだ。
そしてもう一つは未来への期待を捨てること。「今を全力で楽しむ」というのが通りのいい表現なんだろう。未来への投資をやめて、現在の快楽を優先させる。生きるために貯蓄は必要でも、時間や労力は最大限イマに向けて注ぎ込む。
人は誰でも未来を意識しながら今を生きている。この瞬間を楽しくしたいのは当然だし、その中で未来の自分も少しでも幸せにするために勉強(だけじゃないけど)をする。その配分、いつの自分に投資するかは人それぞれだし、毎日のように試行錯誤をするのだろう。
けれどその基盤自体が革新的に変わったらどうなるのだろう。変化に合わせて投資の比率をうまく調節する、というよりは意識の向け方自体を変えざるを得ないとき、上手に対応することはできるのだろうか。
仕事に順応できずに悩む若者やネットで見る中年のボヤキの多くはここに根っこがある気がする。昔のことは知らないけど、たぶん現代人はこの変化への対応につまずきやすい。小さいころから「未来」のことばかり考えざるを得なかったからだ。
大きな拠りどころである「社会的成長」というチャネルを失った時、現代人はどうやってバランスを撮り直せばいいのだろう。
成長を捨てたときにできるのは過去を愛でることだけかもしれない。希望のない未来を否定し過去を守ろうとする作品がコレ。
良くも悪くもシンプルでした-『劇場版まどマギ [新編]反逆の物語』感想1
少し今更感もあるけどまどマギ劇場版の感想。結局見たのは2回で、最後に見たのは3週間前だけど、BDとかで見返すときのために現在の感想をば。まずは構成について。
一言で言っちゃうと、とってもシンプル!いい意味でも悪い意味でも枝葉が少ない。それぞれのキャラクターの立ち位置が把握しづらいけど、全体の流れはいたって単純。
すごくしっくりきたので、ゲンロンカフェの村上×坂上×さわやか座談会の書き起こしを引用。
前はアルティメットまどかのことを「概念」って言ったんですよね。でも今回はっきりとまどかは「神」として登場していて、ほむらは「悪魔」。「概念」っていう抽象性の高いものから、ベタな「神vs悪魔」って構図の神話に直そうとしている感じはした。今回の映画は非常にわかりやすくて、全力でエンタメに徹している。前の作品には母性の問題とか、なにか文学的なものが走っていたと思うんだけど。
途中までは神ですよ、百点満点。映画「まどか☆マギカ」最速沸騰座談会レポ1(エキサイトレビュー) - エキサイトニュース(2/4)
そう!劇場版まどマギは論点が一つしかない。最後のほむらの選択にどう反応するかだ。肯定派も否定派もいて、そこでこの映画の評価は二分されるんだけど、要は万人がそこに注目せざるを得ない。劇中のすべてが結末へのギミックになっている感じ。
前半はどこでも言われているように「公式の二次創作」で、その後は犯人捜し。そして絶望したほむらが救われる……と思いきやのラスト。面白いくらいにグイグイ引っ張られるし、悪く言えば「ここではこんな風に思ってほしいんだろうな」というのが想定できる。それでもほむらの悪魔化には驚いたけど!
TV版も振り返ってみると結構シンプルなあらすじなんだけど、いろいろな視点や、どんな方向に振れるかわからない感覚があった。上でも出てる母の目線とか、中学生という未熟な時期の微妙な友情や擦れ違い、対立とか。だから放送中にはぶっ飛んだ解釈や結末予想が生まれたんだと思う。鑑の国のアリス説とか、「いや絶対ねーだろ」と思いながら、内心それ以上のどんでん返しを期待してた。当時勉強そっちのけでスレに張り付いた身としては、そんな検証と考察を重ねためちゃくちゃな予想を見るのが面白かったし、それに対して一番最初に思いつく「禁じ手」を使ったTV版ラストにはちょっとがっかりする部分もあった。まあ話数の都合とか考えればベストだし、むしろきれいに風呂敷を畳んでくれてうれしかったのだけど。
もちろんこの差はTVと劇場という媒体の違いも原因だろう。TV版も今回の劇場版も、それぞれの媒体、視聴者の状況が綿密に考慮されながら作られている。
TV版では「魔法少女」に対する今までの印象が重要なフックだったし、毎回気になるところで終わる計算しつくされた引きだった。だからこそ震災での放送時期延長、ラスト2話(関東では3話)一挙放送は制作サイドからすれば大誤算だったんだろう。
劇場版はTV版の大人気を受けて、ファンへのサービスとTVの続きが共存できるように計算されている。TV版放送後に独り歩きしている感もあるキャラたちを、ファンが望む形で映像化した前半と、TV版の続きとして新たな選択をするほむらを描く後半。
見返さずにイッキに見ないといけない映画だからこその配慮だとか、特に今回は「どこの世界なのかわからない」という視聴者の混乱もあるからなのかもしれないけど、TV版にはあった、「本筋のちょっと外側にある感情」が希薄だったかな、と感じた。だからか2回目に視た時には予想以上に予想外の発見がなかった。
ただ、そうした以外にシンプルなストーリーに奥行を与えているのが、イヌカレー作画と梶浦サウンドなのです。劇場版にも衒学的な作画がたくさんあって、そういうところを探すのが2回目の醍醐味でした。BGMと作画はまどマギという作品にかなりの厚みとインパクトを与えていると思う。
以上が全体の構成についての感想についての感想です。
次回は肝心の「論点」について
定期的になるかわからないけど12月の就活振り返り -やる気のアピール・ゲーム
就活も解禁してしばらくたったわけですが、就活でスケジュールが埋まっていくにつれて他のことやりたい欲求が高まってます。ここ1か月は読書もほとんどしてなかったのにいきなり本を買ったり、積みゲーをやり始めたり。テスト直前に限って部屋の掃除が捗る、みたいなものなんでしょうか。
就活でスケジュールが埋まって、とか書いたけど実際はほとんど何もしてないです。一応就活サイト登録して、一応エントリーして、一応説明会に行って。とりあえず「この時期にやるべきだとされている」ことの最低量を消化しているって感じです。
というわけで、12月の就活の振り返りと、そこで感じたことを少しまとめてみます。
この時期にするのは合説に行って興味分野を広げることと、エントリーをしておくことです。業界によっては個別説明会や一次選考が始まってるところもあるらしいけど、俺は知らん。
エントリーは少しでも興味がある企業にはガンガンエントリーしていくべきらしい。エントリーすること自体にはデメリットはないし(ド〇ンゴ等は例外)、エントリーしないと説明会や選考の案内が来ないので戦いに参加することもできない。リングに上がるための情報すらもらえないわけです。50~60社エントリーするのが当たり前らしい。
次に合説ですが、これには過度の期待はしない方がいいです。話されるのははちょっとその業界に興味があって調べたことがある人なら知ってる情報がほとんど(とはいってもなかなか自分で調べたりしないんだが)。なのでさっきも書いたように今まで関心がなかった業界の説明をフラッと聞いてみて、良さそうだなーと思ったらエントリーしてみる、くらいでいいと思います。遠くでやってるアホみたいにでかい合説に無理してまで行く必要はありません。無駄に疲れるだけです。
……と言いたいところだけど、それが正しいかは分からないのが現状。合説では必ず自分のプロフィールを渡します。親切な会社はそれで自動的にエントリーの手続きをやってくれたりもするんだけど、要するにこっちが説明会に参加したことは全部企業側にも知られているということです。
これから個別説明会も始まるけど、人気企業だとほんとに受付開始してすぐに席が埋まる。なんでかと言うと、説明会に参加することはそのまま自分を売り込むことになるから。
個別も合同も、説明会やセミナーに参加しても選考には影響しませんと明言されてはいる。それでもやっぱりこうしたイベントに参加しておくのは強いらしい。イベントに参加することで人事に顔を覚えてもらうこともできるし、参加しているという事実がすでに「私は御社で働きたい」という強い思いを表明することになるからだ。
採用を決めるのは結局は人間だ。将来一緒に働く人を選ぶ以上、人間性をよく知っている人や自社に興味を持っている人を採りたくなるのは当然のことだ。直接選考に関係ないといっていても、そうした選考外で与えたプラスの印象はどこかで効いてくるはずだ。詳しいことは知らないけれど、そういった場で仲良くなった学生に特別な措置を取ることは珍しくないらしい。
だから目新しい情報はなくても、興味がある会社の説明会には可能なだけ出席するのが大正義なのだ。
就活はやる気さえあればやれることは無限にあるし、逆にやる気がなければ何もやらないでいることもできる。しかしやる気を見せることはそれだけである程度評価される。努力をすることそれ自体が評価されるのはとても日本的で、救いがあるといえるかもしれない。
しかし一方で能力は十分にあって、ルール通りの必要最低限の行動だけをする人が損を見る可能性があるともいえる。ましてや自分のようなそもそも働くということに実感も意欲も持てないような人間は、その意識の時点でガチ勢ととんでもないほどに差が開いているのだ。
「物事を大きく考えすぎない技術」が足りない
昔からこれはしょっちゅうなんだけど、じゃあ何でこんなことになるのかを考えてみたい。
ブログを書く理由は、「どうしようもないから」
ブログ開設記念ということで、自分がブログを書き始めた理由なんかを振り替えってみようかと。
まずあるのは、ブログを書くなんてバカだよねーという思いです。
というか、文章を書くという行為はものすごくリスキーだと思う。
なぜかというと、文章は目よりも口よりも多くを語ってしまうから。
正直言うと、会話なんて言うのは嘘がつき放題なわけです。
あらかじめ自分のキャラを定めておけばそこから外れることはあまりないし、空気とかいうやつを読んでおけば角が立つこともない。
そもそも、ほとんどの会話には目的なんかないのだから、とりあえず相手の話を聞いてウンウン言っておけばいいし、こっちから話すにしてもどーでもいいような一般論とか取り留めもないことを言っておけばOKなわけです。
でも文章は違う。
どんな文章であっても、何かを書くということはその人の思考を浮き彫りにします。論文みたいに決まったテーマに沿って書く場合でもその人の思考手順や根柢の理念なんかが見えかくれするし、「何でもいいから書いてみて」なんて言われた時には趣味とか、普段考えていることとか、なんならそういうのをどうやってカモフラージュしようとしているかとか全部見えちゃうわけです。
大学でみんなの書いた論文を読みあうっていうのをやったんだけど、とにかく怖い。論文みたいなカチッとした文章でも本当にいろんなものが見えてしまう。何が好き、何を考えている、どれくらいものを考えられる、何を嫌っている、何を信じている、何をごまかしているか。文を書いているときの顔が浮かんできそうなくらいに、文章というのはとにかくいろんなことを浮き彫りにする。
その原因はたぶん、文章というのは一人でする会話だからです。自分一人で話を進めなくちゃいけないから、どうしても何かが漏れ出してしまう。
会話だったら相手のレスポンスがあるからそれを見てこっちも適度な返しをすればいいし、そもそも何か一つを深める会話なんてそんなにない。
でも文章はたいていの場合は何らかの指向性を持たざるを得ないし、その方向も進む速さも、全部自分で決めなくちゃいけない。
だから文章を書くというのはリスキーなわけです。
だからブログを書くというのもくだらない。
不必要に自分をさらけ出してしまうことでしかないし、自分が出していいと思っている自分が、自分が分からないうちに出てしまうことだってある。
まあ、この考え方自体が一番の問題なんだけど。
義務教育などの、決められたコミュニティの中で生きることを強制される世界では、この「自分を出さない」生き方はかなり強い。ほっとけば味方はできるんだから、あとは敵ができる隙を作らないようにすればいい。
だけど、大学生になってから、これからの世界はその生き方だけでは埋没していく一方なのかもしれないと思うようになった。
強制的に参加させられる集団がない世界では、自分で自分の色を出して何らかの集団にコミットしないといけない。
隙や敵ができてしまうとしても、自分の指向性を人に見せていったほうが効率的に人生を過ごせると思うようになった。
けれど、それを会話ですることはもう不可能なわけで。今までの会話のスタンスが身に染み込んでしまっているから、そんな簡単に自分をさらけ出すしゃべり方なんてできない。もう、どうしようもないわけです。
だからブログを書こうかな、と思う。自分と対話して、否応なしに何かを吐露してしまうブログなら少しはましになるかなと考えたわけです。
もう一つは、後から当時の自分を振り返るのも割と楽しいかもと思ったからです。これは終活の一種かもしれないけど(笑)