何より大事なのは精神的安定なのにそれを優先したら叩かれる

 

 僕は昨年から学生の身分で一人暮らしをしている。実家でも通学上は何の不都合もなかったため、多くの人になぜ一人暮らしを始めたのか尋ねられるが、大体の場合は「自立する力、社会経験を身に着けるため」と答えている。これも嘘ではないのだけれど、一番の理由は実家にいると気が詰まるからだ。しかしこんなことはなかなか言えないし、言ったとしても受け入れてもらえることは少ないだろう。精神的な苦痛は多くの人の中で優先順位が高くないからだ。

 

 物理的に証明できない精神的苦痛は納得されづらい

 

 家族が特別憎いというわけでは一応なかったが、単純に実家にいるといつも気が詰まる思いがした。というか人がいる空間に長時間いることがたまらなくつらかった。家を出る前はその意識は曖昧だったけど、実際に人がいない空間を拠点としたことで、その思いが事実だということが分かった。

 

 たぶん「人と接していたい時間」というのは個人ごとに異なっていて、僕の場合は実家にいるとそれがベストな形で保てなくなっていたのだろう。実家という場所では僕は精神的安定を保つことが難しかった。けれどそれはあくまで僕が感じていることであって、そういう苦しみを感じたことがない人にはこの観念を理解してもらうことは難しいだろう。

 

 例えば僕が虐待を受けていたら説明の仕方は変わったはずだ。実家を離れたいと感じるに足る事実や客観的な評価があれば堂々と家を出ることができるはずだ(その場合は逆の後ろめたさが伴うだろうが)。しかし僕の場合にはそういう「証拠」が何もないし、それは単なる甘えだといわれたら言い返すことができない。だから僕は一人暮らしを自立という社会的正当性がありポジティブな理由で行っていると答えなければいけない(と思ってしまう)。

 

全ては精神の安らぎのためなのでは?

 

 なぜ自立のためと言えば聞こえがよくなるのか?それは自立という言葉が成長と最終的な社会貢献の意を含んでいるからだ。しかし成長と社会貢献だってその原因は「成長すること」「社会貢献すること」による精神的安定だ。

 

 お金を稼ぎたいと思うのだって安定した生活を送りたいという欲求を満たして精神を安定させるためだし、他人より優秀な成績を残したいと思うのは競争に勝つことで自尊心を満たして心に安らぎを与えるためだ。そう考えるとすべての行為は精神を安定させるためのものであり、人と一緒にいないためという理由も自立して一人前になるためという理由も同列に扱われなければならない。

 しかしそうならないのはやはり客観性の有無が違うからだ。

 

精神科医は見えない苦しみに客観性を与える存在

 

 全ての行為が結局は精神の安定のためだとしてもそれぞれの他者からの評価のされ方は全く異なる。特に重要なのが客観性の有無で、「虐待されたから家を出る」と「ただ人といたくないから家を出る」では与える印象が全く違う。しかし本来精神的苦痛は目に見えないので、こういった「誰から見ても分かる原因」がなければ苦痛が万人に認められるのは難しい。

 

 

 そのために存在するのが精神科医なのだろう。目に見えないはずの精神的苦痛に診断結果という社会的に認められた指標が与えられれば、客観的な免罪符が手に入ることになる。これにより現状から逃げるための言い訳ができ、堂々と精神的安定を求める事ができる。

 

 2ちゃんなどではよく「精神科医はテキトーに病名を付けて薬を出すだけの仕事」と言われるが、それだけでも価値はあるのだろう。どんなことにも正当な理由がないと行動に移しづらい世の中で、病名という理由をあたえることで患者の行動の幅を広げることができる。逆に新型鬱に対する「誰にでもあてはまることに病名を付けるのは怠け者を助長するだけ」という指摘ももっともで、他人から見えることのない(=誰でもそうかもしれない)精神的苦痛に安易に病名という理由を付与すれば不適当な人にラクする口実を与えることになりかねない。

 

 

 どんな選択も精神の安らぎのためだと思えば自分に素直に決断を下せるかもしれないが、それを他者に説明するにはある程度の客観性が関わってくることも忘れてはならない。