きっと100%が無理だから、伝えないといけない
伝えるということの意味についてふと考えてみる。嬉しいこと、悲しいこと、怒ったこと、僕たちは他人に自分の体験を伝えたくて仕方ない時がある。
それはいったい何のためなのだろう。起こったことを克明に話したところで事実が覆ることはない。失敗は失敗のままだし、悲しいことは悲しいままだ。過去を変えたいわけでもないし、おそらくそこから教訓を得ようというわけでもない。そんな打算的に話をすることはほとんどない。
なら、事実を知ってもらうためだろうか。相手に自分の置かれた状況を知ってもらって、自分と同じ気持ちになってもらうためなのだろうか。
話したって理解されない
私はなぜか加藤さんに山本さんの話をした。加藤さんはふうんと言って、感心しただけで、私と同じように、
「そんな経験したことないから、なんて言ったらいいかわからない」
と笑った。 *1
僕は「お前のことは分かっているよ」という言葉が嫌いだ。複合的な要因のすべてを把握して、100%その人を理解することなど不可能だからだ。だから「なんて言ったらいいかわからない」という返答は正しい。全部が伝わることなんて絶対にないし、もしそう思っているとしたらそれは甚だしい思い上がりでしかない。
伝わらないことに意味がある
コミュニケーションには必ずロスが生じる。お互いの立場が非対称なのは必然なのだから、それは仕方がない。けれど、だからこそそんな非対称な人間同士だからこそ話すことで小さな共通点が見つかるし、新しい共通点を構築することもできる。
きっと伝えるというのはそのためのものだ。会話というのはいつでも一方通行になりがちだし、どんな時でもその要素をはらんでいる。だからといって会話をしないでいいというわけじゃない。むしろ一方通行にならにために会話をしないといけない。瀬尾まいこの小説を読むと、いつもそんなことを思う。
当たり前のことだけど、この意識を常に持ち続けるのは本当に難しい。経験を積むと人はどうしても傲慢になる。過去の経験から眼前の事象をパターン化して分かった気になりたがる。「お前のことはわかっているよ」ではなく「わからないからこそ、少しでもわかりたい」という立場を持つことこそが伝えることを考えるうえで一番重要なのかもしれない。