生きるというのはただリソースの割き方を覚えることだ -『羊をめぐる冒険』 村上春樹著 感想

馴れとはリソースの割き方を覚えること

 人は馴れることで、適切なリソースの割き方を覚える。英語の期末テストだって、パワーポイントの作り方だって、洗濯物の干し方だって、みんなそうだ。物事が上達するというのは、すなわちリソースの割き方に無駄がなくなることに他ならない。

 メモリーが増設されるわけでも、最大出力が増えるわけでも、剣さばきが早くなるわけでもない。ただ脳の指揮系統が、作業プロセスだったり指先の動きだったり、あるいは夕飯前の透き通ったビールだったりをちょうど良い塩梅で考えられるようになっただけだ。

 

生活に染み込んだ行動のリソース配分と、「弱さ」

 ニートでも運動音痴でも精神障碍者でも何でもよいけど、生きるのが下手な人というのは要は生活の奥深く、意識もされないようなしみついた根っこの部分のリソースの割き方が下手な人だ。それは通勤中に「間に合わなきゃ」と小走りにするリソースと、「まあいいや」と思って適度に脇道の看板を眺めるリソースの配分だったり、休憩中に食物を咀嚼するリソースと、不快にならない程度の談笑をするリソースのペース配分だったり。

 

 最近は、そんなことのリソースの割き方を覚える作業にリソースを割いている。とは言っても、ただ単に何をするときにも「なんとなくちょうど良い」と思えるスピード、あるいは神経質さを計るだけだけど。他の人の体感は知らないけど、僕は昔から何をするときにも周りに追いつけず、消耗している感がある。

 

 

 理想は村上春樹の小説、それも短編小説ではなく長編小説の主人公のペースだ。特に青春三部作、中でも『1973年のピンボール』あたりの主人公のリソース配分がちょうどよい。重すぎるミッションに淡々と臨む『羊をめぐる冒険』も見習いたいところがある。

 さらに関連させて言えば、おそらく主人公の対極の存在として描かれた「鼠」が、この「生活に染みついた行動」のリソースの割き方が徹底的に下手だった人間なのだろう。それが彼の言う「弱さ」であり、とかく人から離れようとした原因なんじゃないか。

 

 ただ。本当に青春三部作の主人公がリソースの割き方がうまかったのかどうかは、実際のところはわからない。「僕」はすべてに淡々と一般的に生きているようで、そんな自分に常に引っ掛かりを感じているようにも見えたからだ。

 

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何より大事なのは精神的安定なのにそれを優先したら叩かれる

 

 僕は昨年から学生の身分で一人暮らしをしている。実家でも通学上は何の不都合もなかったため、多くの人になぜ一人暮らしを始めたのか尋ねられるが、大体の場合は「自立する力、社会経験を身に着けるため」と答えている。これも嘘ではないのだけれど、一番の理由は実家にいると気が詰まるからだ。しかしこんなことはなかなか言えないし、言ったとしても受け入れてもらえることは少ないだろう。精神的な苦痛は多くの人の中で優先順位が高くないからだ。

 

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スケジュール帳から見る人の性格と寂しさの処理

 世の中には二種類の人間がいる。

 スケジュール帳を埋めるのが大好きな人間と、真っ白なスケジュール帳が大好きな人間だ。もちろん僕は後者の人間だ。仕事などの強制的な予定はもちろん、遊びの予定だとしても先の予定がぎっしり詰まっている手帳を見るとげんなりする。

 

 両者の違いはなんだろう。端的に言えば、おそらくそれは未定の時間を楽しめるかどうかだろう。

 予定のない日曜の朝、僕は爽快な気持ちで掛布団を払いのけることができる(そして9割の確率でまた布団をかぶる)。しかしそうじゃない人も多いらしい。やらないといけないこと、することがない一日を憂鬱に感じる人は少なくない。こういう人はまあ大雑把に言ってしまえば計画的に物事を進めるのが好きな人、人の輪、集団の中にいるのが好きな人と言えるのだろう。

 一方で真っ白なスケジュール帳を好む人は自由を楽しめる人、決まった集団の中に属さないことを楽しめる人と言える。以前の自分は計画通りの進行しか認められないガチガチの人間だっただけに、「空白のスケジュール帳」を楽しめることにちょっとした優越感を感じていた。しかし、時間や他人に縛られない人間がそんなに素晴らしいのかというとそうでもない。孤高で自由な時間でいつもまだ見ぬ土地に一人旅をするわけでもないし、他の人が知らないニッチな作品を鑑賞しているわけでもない。

 自分の場合、予定のない日に家から出ないことはおろか、日が傾くまで布団から出ないことだって珍しくない。もちろん素晴らしいお一人様ライフを満喫している人もいるのだろうが、生産性の高い「自由な時間」を過ごせる人はそこまで多くないように思う。

 

 

 もちろん何もしないで自堕落でいるのも何も悪いことじゃないし、そもそも自由な時間に生産性を期待すること自体が間違っているともいえる。じゃあ何が言いたいのか。それは両者を決定的に隔てるものは厳密に言えば「寂しさ」を自己処理できるかどうかだということだ。

 空白のスケジュール帳を楽しめる人は寂しさを自分一人で解消できる人だ。何もすることがない時に自分一人でやることがある、もしくはやりたいことを見つけることができる。現代的に言えばオタク的だ。

 一方でスケジュール帳を埋めたがる人は寂しさを自己処理できない人だ。だから予定が入っていることに安堵し、きっと退屈な日には誰かを誘って予定を作ろうとする。

 

 以前は空白のスケジュール帳を好む人の方が快適な人間関係を築けると思っていた。さびしがり屋の構ってちゃんよりも、自分だけの趣味を持ち、他人に縛られない「空白のスケジュール帳」の人の方が人間的に魅力的になり、結果波長の合う人と気の置けない中になれるからだ。しかし、最近はむしろスケジュール帳を埋めたがる人の方が最終的に周りに人がいっぱい残るのではと思うようになった。

 

 というのも、人が親しくなるのに大切なのは気質の一致よりも長く同じ時間を過ごすことだからだ。特に目的がない時間、ただ何となく一緒にいる時間が長ければ長いほど人と人は打ち解けられる。趣味や思考の一致はきっかけづくりや第一印象には重要だが、長い時間を過ごすうちにお互いの違いに寛容になり共通の話題も生まれる。

 そして相手の新たな一面を見つけるのにも有効なのは何となく一緒にいることだ。仕事や明確な目標がある集まりでばかり時間を共有しても意外性のある話をする機会は少ない。意味もなくなんとなく会った中で話題を考えながら話すうちに、今までとは違う発見があるのだ。

 

 そう考えると深い人間関係を作りやすいのはスケジュール帳を埋めたがる人だ。目的もなく寂しさを埋めるために人と会おうとすること、しいて言えば「なんとなく人と会うために」人と会うことができる。空白のスケジュール帳を好む人は自分で寂しさを埋めることができる分、なんとなく人と会う必要性は少ない。目的があって初めて人と会おうと思うので、それだけ関係を深める機会を損失しているともいえる。

 

 よく「一人暮らしのOLが猫を飼い始めると結婚できなくなる」と言われるがこれも同じ原理だ。一人で寂しさを埋める手段を手に入れると人は外部に関係性を求めなくなる。

 自立という言葉が悪い意味で使われることは少ない。しかし物や娯楽にあふれた現代では自立しすぎると今まで当たり前だった人間関係を手に入れることもできなくなるのかもしれない。スケジュール帳の空白に耐えられないくらいに寂しさを怖がる人の方が長期的に考えれば幸せに生きられるのかな。

 

決断するときの二つのポイントという名の自己弁解

 前回にも書いた決断の仕方について。何かを決めるというのは探究すること、考えることとは真逆の難しさがある。定められた正解、客観的な目標値がある場合とは違って自分の内面の正しさは自分にしかわからない。というか自分にも分からない。

 悩めば悩むほど思考は深化し、意識は拡散してやがて普段は当たり前だと思っていた前提すら不確かになり自分が見えなくなる。今までの人生、これからの生き方と無限にある視点のすべてを捉えようとすると巨大な時間という存在に押しつぶされそうになり、底知れぬ恐怖に包まれる。

 

  多くの観点を考慮に入れるのは必要だが、決断するというのはそれとは対照的な行為だ。風呂敷をどこまでも広げるのではなく、最終的にうまく閉じるのが決断することの意義だ。なので自分が絞りきれなくなるほどに選択肢を増やすのはマイナスとなる。

 

 絶対的な正解のない問いの中で決断を下すために必要なのは「どうやって選択肢を絞るか」と「どうやって妥協するか」だ。それを踏まえて僕が決断の時に意識したのは以下の二つ。

 

 

1、好きなことではなく嫌いなことから考える

 自分が何がやりたいか、何が好きかではなく、自分は何が嫌いなのかぜったいにやりたくないのはどんなことかを考えてそこから少しずつ嫌いじゃないこと、やってもいいことをあぶりだしていく。精神分析的に言えば、過去の自分を探っても本当の自分はわからない。ならば肉体的、環境的にどう考えても不可能なことから考えるべきだ。そうすれば最悪の結果は予防できるし、漠然と考えるより思考の範囲を狭めていった方が結局「自分が好きなこと」にも到達しやすい。

 

2、誰かに話してみて自己欺瞞をしている気にならない

 決定したことを実際に誰かに話してみて自分である程度納得できる、少なくとも自分に嘘をついている感じがしなければOK。悩めば悩むほど考えはまとまらなくなっていく。そんな時に一応の着地点を決めるときの指標にしたのがコレだ。

 実際に口に出し、誰かに聞いてもらうことで自分の中に客観的な目線が持てる。誰かに話す、誰かに聞かれているという状況を作ることで聞き手の目線を考えることができ、冷静に自分の決定を見つめ直せるということだ。ちなみに、この場合の客観的な目線を得るというのは、話した相手にアドバイスをもらうということではない(もちろんもらってもいいけど)。ただ、せっかく自分の中で考えが固まっているときに的外れな指摘を受けると何が正しいのかわからなくなる。特にプライベートな問題を考えるときは、最後の決定の段階で人に頼るのは効果的じゃないように思う。

 

 最後に大切なのは、なるべく自分の決定を信じぬくことだ。何度も言うけれど、絶対的な正解がない以上どんな決断にも後悔の念は残る。そんな中でこの決断を前提として前に進むためには自分の決定に自信を持つ(ように見せる)必要がある。だから一度下した決断を疑うことはしない勇気も時には大切だ。逆に言えばいつまでも疑いが拭い去れない場合はその決断のどこかが間違っていたということで、考え直すのはその時になってからでも構わないということだ。

 

 

 こうやって決断のプロセスを振り返るのはきっと自分の決断の正しさを訴えたいという意味もある気がする。いつまでも不安が消えないからこそ誰かに正しいといってもらいたいし、目に見える証拠が欲しい。

 けれど何が正解かなんて最後まで誰にもわからない。ならば自分が間違っていると思わない限りはその決断は正しかったことになると思えばいい(と言い聞かせる)。

1月、2月の就活振り返り② 決断すること、諦めること

 

 初めての面接を受けてきた。結果はまだわからないけど、とりあえず感触としては上々。こちらの人となりを知るのが目的の面接だったおかげもあって、とりあえず会話自体はスムーズにできたと思う。

 

 

 結局、この2週間は前回に書いた「自分の仕事の軸」を考えることに費やした。面接対策としてこの方法はかなり有効だとは思う。主張の根幹をあらかじめ決めておけば、突飛な質問をされても答える内容の着地点をある程度きめやすいし、話がぶれることも少なくなる。

 

 

 

 ただ、この3つの軸を決めるのは本当に難しかった。というか今でもきちんと定められた気はしていない。絶対の自信を持って「好きだ」「譲れない」と言えるものなんてそうそうない。あらゆる要素はその場その場の環境で変動するし、そもそもそんな絶対のものがあるのかと考えるとわけがわからなくなる。

 

 好きなもの、譲れないものといった「絶対」を決めるのはある意味では他をあきらめる行為だ。特に今後の人生のうちのかなりの時間を占める(こんな考え方はしなくて良いと思うのだけれど)仕事についてならその決断はその他多くのものを切り捨てることになる。「安定した環境が良い」と決めれば自分から状況を変えるチャンスを切り減らすことになるし、「切磋琢磨しながら働きたい」と決めればそれに疲れた時の逃げ道を多かれ少なかれふさぐことにつながる。

 

 何かを好きだと思うこと、選ぶことは他方を選ぶチャンスを放棄することだ。どっちつかずにいる状態はすべての未来を「あり得る未来」として想像できるが、決断してしまったら放棄した選択肢は「諦めた未来」として仮想することしかできなくなる。

 

 そんなことを考えると何を決断したらいいのかわからなくなる。選択と言ってもぎゃるげのようにどこかでルートが完全に分岐するわけでもないし、何年も先の未来について正しい決断することが無理だってことも、きっとこんな選択を絶えずしながら生きなければならないこともわかってはいる。それでも一応、一定の将来を決定し、ある一定の将来を諦める岐路に立ったとされる(そして自分でもそうしようと思った)以上は、どんなルートを選ぶか決定しないといけない。

 

 

 何が言いたいのか曖昧になってきたが、要は悩みながらもある程度の決断を下したということだ。「本当にそれでいいのか?」というモヤモヤは残るし、以降はこのことについて全く考えなくていいというわけでもない。それでも一応の決断はしたし、区切りも付けた。長くなったので、どうやって決めたのかは次回に書きたい。

1月、2月の就活振り返り①

 1月、2月の就活について振り返ってみる。とりあえず一週間前に書いて保存した文章から。

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 1月は流されるように説明会に行って、流されるようにエントリーを繰り返した。そして1月末から2月前半にかけて怒涛のESラッシュが相次ぐ。もともとエントリー数もそこまで多くなかったから、ESを書ききることも少し頑張ればできたはずだ。

 

 しかし、まったく筆が進まなかった。締め切り直前までやる気が出ないのは昔からだからしょうがないにしても、ギリギリになってもやる気が出ない、書くことが思いつかない。都市圏だから一日前でも大丈夫、速達だから大丈夫、と先延ばしの言い訳を考えるるだけで、結局多くのESを出すことができなかった。

 最終的には連日の寒さで熱を出してしまい頭を動かすことすらできない日が一週間近く続いた。一番締め切りが重なっていた一週間は、結局何もせずに終わった。けれどあまり後悔はしていない。もしかしたらESを書きたくないという思いが体に現れたのではとすら思う。無意識に拒否していた行為に対して身体が言い訳を作ってくれたというか。

 

 ESを書けば書くほど、自分が何故この企業を受けようとしているのかわからなくなった。企業が望む人材、望む回答を考えているうちに自分が何をしたいのかわからなくなっていく。

 そんな時にバイト先の上司にもらったのが「ESなんて全部同じでいいんだよ。自分が仕事をするときに譲れないことを3つだけ決めてそれに沿って書くだけ。面接対策もしなくていい。譲れないことさえ決まってればあとは勝手に向こうから質問してくれる」という言葉。

 

 この言葉を聞いて心のモヤモヤが少し晴れた気がした。最近は、目の前の作業に追われて「自分がどう働きたいか」「どう生きたいか」という軸があやふやになっていた。企業に合わせた答えばかり考えて自分がどうしたいのかが分からなくなっていた。周囲の声や空気に飲まれるうちに、就活前には譲りたくないと思っていたことすらおろそかになっている。

 もちろん、じゃあ自分の軸を大切にすれば内定が決まるのかというとそんなことはないのだろう。バイト先の上司はたまたまそれでうまくいったからと言って自分も成功するとは限らない。だからこそ多くの人は苦しんでいるのだし、テクニック偏重で成功している人だって多くいるはずだ。

 

 きっと「本当にできる就活性」はこの本音と建前をうまく組み合わせる、もしくは使い分けることで成功しているんだろう。けれど自分にはそんな技量も熱意もあるとは思えない。もう一度自分を見つめ直すのもきっと悪くないはずだ。

きっと100%が無理だから、伝えないといけない

 

 伝えるということの意味についてふと考えてみる。嬉しいこと、悲しいこと、怒ったこと、僕たちは他人に自分の体験を伝えたくて仕方ない時がある。

 

 それはいったい何のためなのだろう。起こったことを克明に話したところで事実が覆ることはない。失敗は失敗のままだし、悲しいことは悲しいままだ。過去を変えたいわけでもないし、おそらくそこから教訓を得ようというわけでもない。そんな打算的に話をすることはほとんどない。

 

 なら、事実を知ってもらうためだろうか。相手に自分の置かれた状況を知ってもらって、自分と同じ気持ちになってもらうためなのだろうか。

 話したって理解されない

 私はなぜか加藤さんに山本さんの話をした。加藤さんはふうんと言って、感心しただけで、私と同じように、

 「そんな経験したことないから、なんて言ったらいいかわからない」

 と笑った。 *1

 

 僕は「お前のことは分かっているよ」という言葉が嫌いだ。複合的な要因のすべてを把握して、100%その人を理解することなど不可能だからだ。だから「なんて言ったらいいかわからない」という返答は正しい。全部が伝わることなんて絶対にないし、もしそう思っているとしたらそれは甚だしい思い上がりでしかない。

 伝わらないことに意味がある

 コミュニケーションには必ずロスが生じる。お互いの立場が非対称なのは必然なのだから、それは仕方がない。けれど、だからこそそんな非対称な人間同士だからこそ話すことで小さな共通点が見つかるし、新しい共通点を構築することもできる。

 きっと伝えるというのはそのためのものだ。会話というのはいつでも一方通行になりがちだし、どんな時でもその要素をはらんでいる。だからといって会話をしないでいいというわけじゃない。むしろ一方通行にならにために会話をしないといけない。瀬尾まいこの小説を読むと、いつもそんなことを思う。

 

 

 当たり前のことだけど、この意識を常に持ち続けるのは本当に難しい。経験を積むと人はどうしても傲慢になる。過去の経験から眼前の事象をパターン化して分かった気になりたがる。「お前のことはわかっているよ」ではなく「わからないからこそ、少しでもわかりたい」という立場を持つことこそが伝えることを考えるうえで一番重要なのかもしれない。

 

 

キンドルストアで225円だったので衝動買い。電子書籍は外に出るのがつらい時の暇つぶしにちょうどいい。

*1:瀬尾まいこ『図書館の神様』